ひたむきな努力で培った実力
困難を乗り越え、勝利への道を切り拓く
常に挑戦の気持ちを忘れない渡邉柊斗選手にインタビューした
サッカーとの出会い
―サッカーを始めたきっかけは?
社会人サッカーをしていた父の影響です。プロ選手ではなかったんですが、4歳から一緒に公園で練習を始めました。基本中の基本はもちろん、一人でも練習できるようにリフティングの練習計画もしっかり立ててくれていました。「うまくなってほしい」という気持ちが強かったのか、かなりスパルタ指導でした(笑)
―厳しいお父さんなのですか?
サッカーに関しては厳しかったです。特に覚えているのは、公園にゴルフボールを取りに行く練習。父がボールを公園内に複数個隠して、それを自宅から走って回収に行くんです。ボールは1回につき1個しか回収できず、片道3~5kmの道のりを登校前や放課後の時間を使て毎日往復していました。当時はきつくて嫌でしたが、あの練習のおかげで自分の強みである持久力が身に付いたと思います。父には感謝しかないですね。
―少年時代はどんな子どもでしたか?
かなり暴れん坊でした。当時マンションに住んでいましたが、エントランスでも外でも、とにかく体を動かして遊ぶのが大好きでしたね。元々活発な子どもだったからこそ、サッカーにものめり込んでいったのかもしれません。
―憧れている選手はいますか?
中村俊輔選手です。彼への憧れがあったから、今日までサッカーを続けてくることができました。同じ左利きで親近感もあり、フリーキックやパスの精度、ボールを持ったときのスター性などプレー全部が魅力的で大好きです。
―いつ頃からプロを目指し始めましたか?
幼稚園のときから将来の夢はサッカー選手でした。小学校1年生でクラブチーム「名古屋FC U-12」に入ってからは思いがより強くなり、小学校の卒業アルバムにも書いたほどです。ただ、小学校高学年の時に受けたトレセン(ナショナルトレーニングセンター制度)で落ちてしまい、プロへの道は険しいと痛感しました。落ち込んだ時期もありましたが、中学時代に「名古屋FC U-15」でいろいろな経験をさせてもらったことで、やっぱりプロを目指す気持ちを捨てきれませんでした。
―プロへの道が拓けたきっかけは?
高校時代はあまり目立ったプレーができず、やはりプロは難しいのではないかと不安でした。しかし、東海学園大に入学後、当時の監督の助言でポジションをボランチに変えたことで道が見えたんです。それまではトップ下やサイドにつき、攻撃を仕掛けることしか考えていませんでした。もともとスピードよりも持久力に自信があったため、自分はボランチに適性があると確信しました。伸び伸びと持ち味を生かしたプレーができるようになったおかげか、大学3年のときにJ1名古屋グランパスに声をかけられ、2019(平成31)年に入団しました。
努力を重ね、プロ入りの夢を果たした渡邉選手
困難を糧に新たな挑戦へ
―名古屋時代には大けがを経験しましたね。
加入後の冬のキャンプで、左膝前十字靱帯断裂のけがを負いました。練習に参加できない日々は辛かったですが、他の選手が意識を高く持って練習する姿を見るのは良い刺激になりました。また、自分と同じようにけがでリハビリをしていた選手たちの「早く治して活躍するんだ」という意志の強さを間近で感じ、プロとしては当然かもしれませんが「当たり前のことを当たり前にやる」ことの大切さを学びましたね。
―けがをどうやって乗り越えましたか?
けがで2年ほど休んでいる間、友人や家族が頻繁に「調子はどうだ」と連絡をくれていました。くじけそうになった時も、周囲の励ましのおかげで「乗り越えなくてはいけない」と気持ちを奮い立たせることができましたね。今も古傷が残っていて、思うようにプレーができず悔しい日々が続いていますが、友人や家族が気にかけてくれることが自分自身の支えになっています。サッカーを続けることで周囲に恩返しをしたいです。
―名古屋だけでなく、J2水戸ホーリーホックやヴェルスパ大分などいろいろなチームに在籍しましたね。
Jリーグ含め4チームに在籍して、たくさんの監督や選手と接してきました。サッカーはどのチームも監督によって方針が違うため、その都度与えられるポジションも変わってきます。決められたポジションで自分の持ち味を出さなければならないので、どの立場でも実力を発揮できる適応力の重要性を学びました。
水戸ホーリーホックでは右のサイドハーフ、FCマルヤス岡崎では左のサイドバックといろいろなポジションを経験しましたが、やっぱりボランチで勝負したい気持ちが強いです。しかしチームの勝利のため、監督が目指すサッカーをするのが選手の役目だとも思っています。どんな環境でもチームの力になれる選手を目指し、努力を続けます。
困難を乗り越え、さらなる精進を誓う渡邉選手
―2021(令和3)年にトライアウトに挑戦した理由は?
名古屋から水戸への期限付き契約が終わり、今後もサッカーを続けていくにはたくさんの人に実力を評価してもらうべきだと考えました。自分のサッカー人生をかけ、トライアウトに参加することにしたんです。
実力はすべて出し切ったと思っていますが、目標にしていたJリーグのチームとの契約は叶いませんでした。少しでも長くサッカーを続けたい気持ちが強く、声をかけてくれた大分に入団を決めました。快く迎えてくれた大分には感謝しています。
―ヴェロスクロノス都農に入った経緯は?
実はトライアウトのときヴェロスクロノスにも声をかけてもらっていたんです。大分の後、2023年に入団したFCマルヤス岡崎での契約が終わるころ、ヴェロスクロノスへの加入を意識し始めました。大学の同級生だった尾崎就斗選手が当時在籍していたので、彼からチームの雰囲気を聞いたんです。「良いチームだよ」というので、オファーを受けることにしました。
―Jリーグなどでの経験をどう生かしますか?
レベルの高い選手がいる環境で得た知見や、肌で感じたことを少しでもチームに還元していきたいです。今年は選手の入れ替わりも激しく、若い選手が多いため1からチームを作り上げていかなければなりません。異なるチーム環境への適応に悩む選手も多いため、培った経験を伝えることで手助けできればと思います。
実力向上を目指し、挑戦し続ける渡邉選手
地域とのつながり
―シフトプラスではどのような仕事をしていますか?
日南市チームに所属し、楽天やチョイス、ふるなびのメルマガ制作を担当しています。最初はPC作業まったくできなかったので、文章作成から配信までとても苦労しました。最近は慣れてきてスムーズにできるようになりましたが、まだわからないことだらけで毎日が勉強です。同じチームの人も優しい人ばかり。皆さん年上の女性で、可愛がってもらってありがたいです(笑)
メルマガの制作業務に励む渡邉選手
―宮崎県での暮らしは慣れましたか?
1月に来たばかりで、都農町だけでなく宮崎県のこともまだまだ知らないことがたくさんあります。最近では串間市の都井岬に妻と行ったり、今住んでいる西都市の祭りを見に行ったりしました。自分は名古屋出身なので、都市部とは違う地域の穏やかさや人の温かさが気に入っています。
都農町では、先日モルック体験会で町民の方と交流しました。皆さん本当に優しい人ばかりで安心したのを覚えています。また、小さな町ですが、年配の方を中心に大勢の人が試合を見に来てくれます。町全体でチームと地域を盛り上げようする姿が励みになります。
ヴェロスクロノス都農の未来
―さらなる成長へ課題は?
技術向上への一番の近道はひたすら練習することです。基礎がしっかりしていなければ、応用はできません。「当たり前のことを当たり前にやる」をモットーに、キックの精度やセットプレーなど自分の持ち味をさらに磨きます。基礎の土台を限界まで上げるため、地道に練習を重ねていきたいです。
―今後の目標は?
JFL昇格です!
―都農の人たちへメッセージをお願いします。
いつも応援してくださりありがとうございます。 都農町をさらに盛り上げるため、目標を達成できるよう頑張ります!
渡邉 柊斗 選手の詳細プロフィールはこちら
- 2024.06.06
- 選手・スタッフ